何かに対して"アツい"ということ

仕事でも勉強でも、モチベーションを維持するのに「楽しい」ということを求める人が多い。というか、自分もそうだった。
だけど、それって危ないな、というのは常々感じていた。
「楽しい」をモチベーションの源として頑張ってきた時、ふと「楽しい」に違和感を覚えたら、そこには「楽しくない」という選択肢しかない。「楽しくない」ことはモチベーションの源になり得ない。楽しくなくなったら、心の拠り所がなくなってしまう。「楽しくない」ことに、その先はない。
さらに悪いことに、楽しくなくなる恐怖から、無意識に自分を「楽しい」と強制し騙す魔力が働く。こうなると、もはや「楽しい」というものの定義自体が揺らぐ。自分の軸が歪む。歪んだ軸に掴まって生きることは苦痛でしかない。
僕は正直、スケッチを描くのが嫌いだし、苦手だし、楽しいと思えない。デザイナーになりたいのに。たまに楽しいなと思えた時でも、自分の腕がまだまだ未熟なせいで下手なスケッチしか描けなかったりいい物が生み出せなかったりすると、途端に「楽しくない」に気持ちがシフトしてしまう。あるいはそれらを後から眺めた時、「楽しくない」の感情が勝ってしまい、新たに手を動かすことができなくなる時がある。
でも、時々、ふと気付くのだ。自分がデザインに対して「アツい」ということに。
自分はデザインに対して思うことがいくつもある。下手だって、自分の求める理想のデザインの世界がある。チャンスがあれば変革したい何かがある。誰かのデザインを見て思いが噴き出ることがある。何かがある。何かわからないけど巨大な何かがある。デザインの世界には、自分を動かす何かがある。
こういう、デザインに対し、ふと「アツく」なる瞬間。それがあるから自分はデザイナーを目指し続けているんじゃないだろうか。
「楽しさ」と違って、もし突然「アツさ」が自分の中から消えてしまったとしても、どうということはない。「アツい」の逆は「アツくない」であって、せいぜいが「クール」くらいのものだ。世界をクールに眺める視点から気付ける何かだってある。世界から一歩引いた時に生み出せることがある。何より、「楽しくない」より響きが軽い。「アツくない」ことは、自分にとって、害にはならない。
俺、アツくてよかったなぁ。
わけわかんないかもしれないけど、少なくとも僕は、そんな感じみたいです。