パソコン族とケータイ族・若者にとっての「ネット」

パソコン見放す20代「下流」携帯族」という記事が話題になっているようだ*1

 衝撃だった。パソコン(PC)が使えない団塊世代以上の高年齢層の断層を「デジタル・デバイド」と呼ぶが、第二のデバイドが出現したのだ。20代の若年層である。まさか、と思うなかれ。高額のパソコンを持たない彼らは、インターネット利用を安価な携帯電話で済ませてしまう。PC族と携帯族の「デバイド」 ――それはネットにも「下流社会」が出現したことを意味する。

パソコン見放す20代「下流」携帯族

確かに若年層においてはパソコンの用途は限られており、コミュニケーションとしてのインターネットと簡易なゲーム程度にしか使わないものであろう。そして今では、このどちらも携帯電話で済んでしまう。だからパソコンは必要ない=使わない=使えない、というのだ。新たなデジタルデバイドとは、なるほど、納得である。
「デバイド」という単語が使われることからもわかる通り、この現象は問題を孕んでいると考えられる。現代において、社会に出た場合、パソコンを使わずに仕事をすることは困難であるからだ。大学においても最早パソコンの使用は義務のようなもので、「卒論はワードで」だとか「パワーポイントでプレゼンを」だとか、当たり前に言われたりするようだ。社会に出て「パソコン使えません」は大きな問題だというわけだ。

問題の本質

とは言ってみたものの、実は私にはそれが大きな問題だとは思えない。パソコンに限らず、技術なんてものは就職してから覚えればいいだけの話。大体にして、携帯を使いこなせるということはデジモノに対してそれほど苦手意識があるわけではなく、センスもないわけではないのだろう。ワードやらエクセルぐらい、使えと言われればなんとかなる人たちのはず。中高年のそれとは根本が異なる話であると、私は考えている。
私がなにを一番の問題としているかといえば、ずばり、インターネットの使い方だ。

若者にとってのインターネット

先ほど、あえて「コミュニケーションとしてのインターネットと簡易なゲーム」と書いた。そう、このような若者たち―便宜的に「ケータイ族」と呼ぶことにする―は、インターネットをコミュニケーションの道具としかみなさない。「mixiで日記を書いてYahoo!メッセンジャでチャットをしてハンゲームで簡単なゲームを楽しむ」わけである。そしてそれらはすべて、ケータイという世界において置き換えが可能だ。「mixiモバイルやモバゲーで日記を書いてチャット代わりにショートメールで会話をし携帯アプリでミニゲームをする」といったように。
それだったらいつも持ってる携帯でいいじゃん、という発想は至極もっともである。いつも手元にあるほうが、コミュニケーションツールとしては優れているのだから。事実、携帯電話は日々高機能化の一途を辿り、欧米ではスマートフォンが市民権を獲得している。
何が言いたいか。つまるところ、ケータイ族にとって、インターネットという有益で広大なデータベースが「日記を書いて会話をしてゲームをする」程度の広さのコミュニケーションツールとしか映っていないということ。これこそが真の問題点なのだ。私ならば若年者層デジタルデバイドをこう定義する。「インターネットをデータベースとして活用する術を知らない若年層との格差」と。

自分で調べる

皆様ご存知の通り、現在のインターネットには大きな原則がある。「自分で調べる」だ。
インターネット上にはおよそ一生かかっても知り尽くすことができない量の情報が転がっており、そしてユーザにはその中から必要な情報を探し出す術として、検索エンジンが提供されている。何事もまずは自分で調べる、これが大原則であることはもはや言うまでもない。
そして、この現象はネットの枠を超えて現実社会にも波及した。図書館に行って百科事典を調べずとも、インターネットを探せば大抵の知識は手に入る時代。書物を片っ端から読んで闇雲にストックしなくとも、必要な情報だけをインターネットから探し当てて効率的にストックできる時代。そんな時代において、すぐ見つかるような情報を人に聞いてばかりでは低効率であることは自明である。現代人ならば誰だって一度ぐらい言われたことがあるはずだ。『そんなの自分で調べろよ…。』

聞いて調べる

「自分で調べる」ことを原則とする社会への進化。だがしかし、ケータイ族は別ベクトルの成長を遂げてしまった。彼らはSNSなどのコミュニティを用いて「人に聞いて」調べてしまうのである。彼らにとってインターネットとはデータベースやストックメディアではなく、フローメディアでしかない。流れ去った情報はまた彼らの脳にストックされることもなく、成長をもたらさない。効率も悪い。彼らは「情報がたくさんある」ことに興味を示さず、「人がたくさんいる」ことにこそ意味を見出した。
もちろん、人に聞くことそのものは悪いことではない。情報の正確性で言えば、相手を選びさえすれば人に聞くことがネット上の情報に勝ることも少なくはない。インターネットが従来触れ合うことのなかった人々を繋ぎ、人々が会話を交わすことにより情報がより正確なものへ成熟してゆくというのもその通りだ。また、インターネットはまだまだ未成熟であり、信頼のできない情報が多く飛び交っていることも否定できない事実だ。比較的希望的観測とも言える論としてはインターネットは正確で完璧なデータベースに近付いてゆくと考えることもできるが、少なくとも現在はその過渡期にあり、信頼性が十分に確保できているとはとても言えた物ではない。その過渡期において、人に聞くという行為を闇雲に否定してはならない。
だが、それがケータイの世界でも同様に通用するかと問われれば、私はノーだと断言する。

世界の大きさ

モバゲーが台頭し、成人した者が足を踏み入れれば爪弾きにされるとまで言われる世界、それがケータイの世界である。知識の正確性はその知識量にある程度相関する。中学生で私などより頭脳明晰な人物などいくらでもいるだろう。だが、その割合で言えばやはり、とても信用できる情報源になりえるとは言えない。信用に足る人物を探す手段もケータイの世界には存在しない。年齢による排斥が続くのであれば、今後の成熟も全く望めないことは自明だ。
若者は「人がたくさんいる」ことに価値を見出したのだと述べたが、果たして「人がたくさんいる」というのは正しいのだろうか?ケータイの世界は狭すぎる。例えばモバゲーではPCからのアクセスは遮断され、日本在住で/携帯電話からアクセスした/登録ユーザしか閲覧を許可されない世界が作られている。当然、世界規模でほぼ垣根なく接続され老若男女問わず利用されているインターネットとは、文字通り規模が違う。それも何桁も。ケータイの世界はインターネットと言えるのか?もちろん、否だ。それはイントラネットと言うのだ。そんな世界で「自分で調べろ」なんて言ったって、土台無理な話である。

デジタルデバイド

で、脈絡もなく結論もなくずらずらと書いてきましたが、そもそも自分で調べられないっていうのは「デジタル」デバイドなんですか?ゆとり教育の成果じゃないんですか?ゆとり世代のぼくにはよくわかりません><!

  • 2008/12/11 追加・改稿

*1:初めに述べておくが、この記事のトンデモさについては言及しない。110番デジタルデバイド以前の問題だろう、常識的に考えて…。